民族移動の話

民族の移動の話

ブロックチェーンに関わっていると海外によく行く。これまで仕事やブロックチェーン関係で行った国やプライベートで行った国も含めて42か国を回ってきたが、その中でもイスラエルは興味深く、アブラハム宗教全ての聖地であるエルサレムに仲の悪い者同士がエリアを分割しながら同居し、まさに世界の縮図のような感じで、なぜ人は争うのかと考えさせられる場所だった。

私はどこかの国を訪れる際は、その国の歴史を調べながら回っている。民族のルーツはどこからやってきて、その国や文化はどうやって成立してきたのだろうかと想像を掻き立てさせるからだ。

初めて自分のブログで書く一回目の内容は、たまたま先日知り合いのご夫婦と飲みながら話題になったテーマでもある歴史。

イスラエルに行ったのは2017年。ブロックチェーン関係者に会う為にイスラエルへ以前行った時、学者っぽいイスラエルの友人から聞いた話だが、

『フン族って知ってるか?フン族のあるグループがハンガリーに渡り、また別のグループがフィンランドに渡り、それぞれが国名にフン族の名前を入れて、フィンランドに行ったグループは、あんなところ(ハンガリー)に移動してあいつら(ハンガリーのフン族)は馬鹿だなと言う一方、ハンガリーに行ったグループは、あんな寒いところ(フィンランド)に移動してあいつら(フィンランドのフン族)は馬鹿だなと言い、それぞれがお互いを罵りあってるんだ、hahaha』

フン族とは、4世紀から6世紀にかけて中央アジア、コーカサス(アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアおよびアゼルバイジャンとジョージアに隣接するロシア南部の北コーカサスあたり)、東ヨーロッパに住んでいた遊牧民だ。

この説については間違えているという研究者もいる為、専門家ではない私はまだこの件に関する検証は十分ではなく、正しいかどうかは読者の判断に委ねるが、民族の移動は各国のルーツを紐解く際非常にロマン溢れる研究材料と言える。

彼はこうも言った。

『創世記の話に出てくるイスラエル12支族の話は知ってるかい?一部が日本に渡ったんだよ。』

私は彼に会う前からその説は知っていたが、彼からその話を聞くまでは、あぁ、どこかの日本人が勝手に唱えているオカルト的な話だな、と思っていた。しかし、まさかイスラエル人からその話を聞くとは思わず、ひょっとしたら、本当かもしれないと思い始めた。僕からしたらロスチャイルドなんて歴史上ずっと遠い存在で、怪しい日本人が名前を騙ってその存在を利用しているというイメージだったが、実際ロスチルド通り(イスラエルではロスチャイルドのことはロスチルドと言う)というのを見ると、彼らにとっては身近な存在であり、迫害によりディアスポラした民族が各国で海外送金ネットワークを作ってきたという事実から見ても、年月を経て日本に来たグループがいてもおかしくないなと思い始めた。

そこで、古代ヘブライ語によって記されたユダヤ教とキリスト教の聖典である創世記と日本書紀を読み比べてみたら、話のストーリーがあまりにも似通っており、その共通点はまた改めてまとめてみるが、日本書紀は720年に編纂されたが当時日本書紀をまとめた舎人親王は創世記などの神話を参考にしたのではないかと推測している。当時の統治者なら宗教による統治事例を研究し、いかに統治者を神格化しながら統治を行えるか考えたとしてもおかしくはない。日本書紀を編纂したのも、中大兄皇子(天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変の際、朝廷の歴史書を保管していた『天皇記』など数多くの書庫までもが炎上した事が理由だが、それ以前から、地元民系の物部氏(神道派)と大陸系の蘇我氏(仏教派)の争いである丁未の乱が起こり地元民系勢力の正当性を証明しなくてはならなかったのだろう。一時、仏教派が権力をにぎったが、その後西暦645年の「大化の改新」のときに、神道派が復権し、日本書紀はその復権を機政治事実化するために国家事業として編纂された、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行う極めて政治的な色彩の濃厚な書物となっている。

話をタイ民族に移してみる。

現在の雲南省には、シーサンパンナ(西双版納)タイ族自治州という地区があり、現在タイやラオスで暮らす人々の故郷だが、6~7世紀当時、まだ黄河流域にあったタイ族は漢族の膨張により西に南への本格的な移動を余儀なくされ、やがて山間部の当地にたどり着く。ここからさらにメコン川を下ったのがラオ族、チャオプラヤー川に転じたのがタイ族とされる。

7世紀頃に6つのムアンが雲南省の大理盆地に六詔国を建国し、729年には、ムアン・スイは強大な唐の援助を得て、皮羅閣王の時代に六詔を統一し、南詔王国を建国したのだが、南詔王国の力が吐蕃(チベット)と同盟して強大になるにつれ、唐との友好関係は次第に崩れ始め、唐の玄宗の時代に楊国忠が751年に8万、754年に3万の兵で2回にわたり南詔王国へ交戦を仕掛けたが、どちらも南詔王国の勝利に終わっているほどの力を持っていた国だ。

902年に漢人の権臣・鄭買嗣が起こしたクーデターにより、南詔王国は滅亡し、その後、蛮(現在の白族、中国雲南省大理ペー族自治州を中心に住むチベット系民族)の段思平が南詔の後継国家である大理国を樹立し、しばらくの間はタイ族もその傘下に収まっていた。その後、タイ族は大移動をはじめ、インドシナ半島、ビルマ、アッサムなどの各地に散り、ムアンを形成しはじめた。こういう経緯を見てもタイ民族は元々力を持っており、現在の東南アジアの繁栄にもつながっていると考えるが、我々がよく聞くゲルマン系民族の大移動をだけではなく、民族移動を繰り返したトルコ系民族、スラヴ族、イラン系民族など民族の移動は多くみられる。

日本へとつながる

同じく雲南省には、ベトナムとの国境近くの紅河ハニ族自治区というものがある。現在143万人いるとされるハニ族の自治区だ。日本にいる中国人からも話を聞いたが、豆を発酵させた味噌や納豆、豆腐もあり、野菜の漬物も食べ、弥生時代の遺跡等から見つかった人骨とDNA 骨格等が一致又は酷似しているようだ。自然崇拝のアニミズムも含めて、日本との共通点が多い。ハニ族は4世紀以降に戦火から逃れて南下したとされるが極東の日本列島まで到達していた可能性は十分にある。非常に美しいハニ族の棚田風景は世界遺産にもなっており、日本にもたらされた可能性は高い。

ハニ族の棚田風景(こちらから転載)

後にインドネシアとなる地域に紀元前1世紀頃から来航するインド商人の影響を受けてマレー系の人々はヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀頃から王国を建国していったように、日本の歴史が表に出てくる前から人々の交流は盛んだった。白村江の戦に敗れ朝鮮半島との情勢が悪化し朝鮮半島経由の航路を遣唐使取れず、長崎県の五島列島経由で南シナ海を横断するルートが取られたが、それまでは対馬や壱岐を経由すれば海を渡ることはそこまで難しくなかったはずだ。エジプトでは紀元前4000年にはすでに帆が出現し、紀元前3000年になるとエジプト人は東地中海を航海するまでになったように、我々が思っている以上に民族の移動は起こっていた可能性は高い。

倭人や日本人のルーツについては、また改めて。

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